庭について

日本庭園の歴史ははっきりしたものではないが、磐座や磐境などの巨石信仰、その人為的な配置をルーツと考える向きもある。
資料として最初に登場するのは日本書紀と言われ、7世紀初頭に百済より仏教などと共に伝来した須弥山が徐々に庭の概念として形成されていったようである。
中国でも仏教世界の中心である須弥山を表すとする一方で、神仙の住まう蓬莱山を表しているなどともされ、また巨石信仰から発達した神道などとも関連し、今に至るまで庭は様々な思想や建築と深くかかわりながら存在している。

Wikipediaによると日本書紀には以下のような記述があるという。

620年ごろ蘇我馬子が邸宅敷地に方形の池を設け、このために「嶋大臣」と呼ばれ、この庭園が珍しく、評判になっていたという記録がある。平坦な広場として実用的に使われていた「庭」に小池を掘り、小島を築いて観賞の対象としての「庭園」が造られた

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 日本庭園

資料によって嶋大臣、島大臣(しまのおとど)は蘇我馬子であったり蘇我入鹿であったり、または草壁皇子であったりとあまりはっきりしないが、造形についての記述をみると、当初は庭を造るとは島を造るものであったようである。

巨石信仰が神々の領域として神社として発達していくことと対比して考えれば、同じルーツから出発した庭は人間の領域として発達していったと考えられる。

人の支配下に置き自然を捻じ曲げ、人為的に捜査しつつも自然であるかのように装う庭。
見方を変えれば人の思いを込めながらも自然と協調し、自然よりも自然らしく振る舞う庭。
これが人の領分であり、この領分を超えれば神の領分として神社へと、信仰へと向かう。

いま現代でも無意識に自分の領域をニワと呼ぶのは偶然だろうか。
シマと呼ぶのは偶然だろうか。

人の営みは幼いころからずっと、自分の領域を拡張していくことともいえる。
子どものころは家の敷地内が自分の庭だった、虫や花、庭のことは何でも知っていた。
小学生になり町内が庭となった、たくさんの未知と遭遇し、周辺領域も広がった。
中学生になり隣駅まで庭となった、合わせて見えない周辺領域もどんどん広がった。
高校生になり市町村を超えて都市部まで庭となった、相対的に庭は小さくなり、足を踏み入れたことのない周辺領域の方が広くなった。
大学生になり県境を超えて庭は国を表すようになった、庭を取り巻く周辺領域は平面ではなく球体であると知った。
独り立ちし国境を越えて庭は地球を宇宙を表すようになった、周辺領域は時間や文化を取り込み全てを飲み込んだ。
この全てを飲み込んだ領域を世界とすると、庭はアメーバー状に広がっている点のようなものである。

その庭を記録する。
人の営みとその広がりを記録する。
自分の領域をひとつづつ確かめていく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください